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黒田九兵衛のこと (3) :三代目忠直と五代目直政

(この記事は別のブログから転載しています)

筆者は十六代目黒田九兵衛を継いでいます。今回は、黒田九兵衛のことについて触れたいと思います。

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菩提寺に残されていた黒田九兵衛の記録は幕末の12代目まで続いています。明治から12代目で私は16代目になります。

初代忠次と二代目直次の時代は、長浜城から関ヶ原の合戦までなので、わずか28年間の出来事です。しかし、この約30年が最も興味をそそられます

 

その後、代々の九兵衛は概ね御物頭足軽大将などの職に就きます。「物とは武器」を意味するので、鉄砲や大砲、槍などの武器です。近江の国友衆を管理したので自然な流れです。

 

戦国時代の三大鉄砲鍛冶と言えば、国友・堺・根来です。堺は商人なので金を出せばどの大名にも売る、根来は商売というよりも傭兵の色彩が濃い集団でした。国友鉄砲衆は基本的に織田信長豊臣秀吉のためだけの鉄砲生産基地です。関ヶ原や大阪の陣の頃には最盛期でしたが、江戸の太平の世になると需要は急落します。

 

直木賞作品「塞王の盾」の主人公の石垣職人の穴太(あのう)衆は太平の世にも壮麗な城の石垣づくりや補修工事の需要があり存続できます。実際に、坂本の栗田家は今は株式会社栗田建設として存続し、現在が十五代目だそうです。城壁の盾は存続しますが、攻撃の矛である鉄砲は無用となりました。

 

そんな平和な時代の御物頭(鉄砲隊隊長)や足軽大将ですから名誉職ではあっても閑職です。その中で三代目と五代目だけ記しておきます。

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三代目黒田九兵衛忠直

戦死した直次の弟です。

慶長五年十月三州院様如来寺の合戦場御見聞の為御出馬弟松爾入共御供仕り如来寺に於いて御膝元へ召し寄 せられ直次討死の儀厚く御貴詞成し下され置き其の上家督仰せ付けられ知行三百石下し置かれ御近習役仰せ付けられ同九年十月二十二日百石御加増下し置かれ同十五年故有って御勘気を蒙り京都大徳寺に罷り越し落髪名休三改五カ年間同寺に罷り在り

要するに加藤嘉明と検分に同行した弟の松はその場で家督相続を命じられ三代目忠直となった訳です。

 

元和元年(1615 年)大阪夏の陣の節圓通院様の御供仕り同四年(1618 年)陸奥国会津御拝領の節其の供仕り其の節二百石御加増下し置かれ都合六 百石と成り下し置かれ寛永十一年(1634 年)七月御上洛の節圓通院様供に就き奉り遊ばされ候。御先乗仰せ付けられ御先手組外に御持筒拾人差し添えられ御供仕り同廿年(1643 年)五月三日圓通院様会津差し上げられし後勢州幸名城主松平越中守定綱候罷り出宛行三拾人扶持二百石下し置かれ御物役相勤め慶安二年(1649 年)正月七日病死仕り候

 

大阪夏の陣には加藤嘉明の長男の加藤明成に随行し参戦しています。また京都上洛の際には先発隊として持ち筒(中砲)部隊長を務めています。

 

加藤家は1618年に会津42万石として転封となりました。年配の佃は伊予に残り、黒田家は加藤家に伴って会津に移りました。この上洛は会津後時代の話です。

しかし、加藤家の会津藩が大失態をしでかしてしまいます、会津騒動です。これは加藤嘉明の若殿明成と先代からの筆頭家老の堀主水が喧嘩をして主水が出奔するという騒動で、幕府が聞き及び所領が返上となった騒動です。これによって、加藤家は加賀百万石に匹敵する42万石の大大名から石見吉永藩 1 万石に移封となってしまいました。

これでは家臣たちを養うことはできません。三代目忠直も浪人の身になるところでしたが、松平越中守定綱が手を差し伸べ彼の地元である久松松平家桑名藩の御物頭として200石で召し抱えられました。御物頭とは番頭とも呼ばれ番方(軍事)職務で、合戦では一軍を率いて指揮する武将となり、平時は警備責任者となります。江戸期には合戦がないので名誉職ですが格式は高かったようです。ここでも名家京極家筋であることと、二代目直次と加藤嘉明の縁に助けられた格好です。また久松松平家会津と伊予で入れ替わった蒲生家の後に伊予松山藩主となっており、二代目黒田九兵衛直次のことは聞き及んでいた可能性もあります。

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五代目黒田九兵衛直政

寥々院様御代宝永三年(1706 年)三月十六日命に依って黒田家相続仰せ付けられ御宛行十 五人扶持下し置かれ御物頭仰せ付けられ組方御預り屋敷綾野に於いて下し置かれ候

覚音院様御代 享保二年(1717 年)七月廿三日五人扶持御加増下し置かれ同四年十一月九日 御旗奉行仰せ付けられ同八年(1723 年)正月二十五日病死仕り候

 

1682年には加藤家は近江の水口で立藩を許され加藤嘉明の孫の加藤明友の代で2万石の水口城藩主となりました。小藩ながら譜代の格式となり寺社奉行若年寄と幕府の要職も務めました。その後、一時的に能登の譜代鳥居忠英が水口に入部して奏者番(武家の礼法を管理)と寺社奉行(将軍直轄の三奉行の最上位)を務めています。その後は再び幕末まで加藤家が藩主を務めました。

五代目直政は1706年に久松松平桑名藩から水口藩に戻り、再び御物頭となっています

水口の綾野に屋敷を賜ったとされています(現在の甲賀市水口町綾野で綾野天満宮の近く)。さらに1717年に御旗奉行を仰せつかる栄誉を得ています。これは将軍の軍旗・馬標(うまじるし)などを管掌する役目で、藩主の幕府内での昇進によって回ってきた職だと思います。

五代目直政が水口に戻った頃は五代将軍徳川綱吉の時代でしたが、その後六代家宣、七代家継と短い治世でした、直政が御旗奉行を仰せつかった1717年は八代目徳川吉宗暴れん坊将軍)の治世2年目です。政治改革を断行した吉宗は将軍となって間もなく、地元紀州藩士のなかでも大役に就いていない家臣を40名余りを選んで、江戸へ迎え入れました。これによって旧来の権力者の側近が牛耳る政治に反感を抱いていた譜代大名や旗本からも好感を持たれるようになったと言われています。五代目九兵衛直政は紀州藩士ではありませんが、譜代格の水口藩もその対象となったのかもしれません

 

当家には江戸中期の名工奈良利寿の鍔が残されています。貴重な物なので某公立博物館に寄託していますが。日本の刀のうち一本は二代目直次か初代のもので室町期に作られたもの、もうひとつは江戸期に作られた刀です。この江戸期の刀の鍔として使われていました。奈良利寿は江戸で活躍した名工で、近江の水口までは出張して来ません。直政が御旗奉行として江戸詰めしていたときに作らせたものと想像しています。直政が御旗奉行になった頃、奈良利寿は52 歳なので円熟の技が刻まれています。

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その後の黒田九兵衛は幕末まで加藤家水口藩の家臣として御物頭を主としながら、御使者番、御徒士頭、御供頭などの役目をこなしてきたようです。

幕末の十一代目黒田九兵衛直尋で1864年池田屋襲撃事件の年に没し、十二代目黒田完爾は明治35年まで生きました。水口藩は戊辰戦争では官軍に味方しています。最後の水口藩主加藤明実は廃藩置県の後に子爵として東京に在住。この時に藩士たちも東京に移住しました。黒田家も同様です。その中には、その後親交が続いた藩医の巖谷家や菩提寺の住職の先祖も同様でした。