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黒田九兵衛のこと (3) 二代目直次

(この記事は別のブログから転載しています)

筆者は十六代目黒田九兵衛を継いでいます。今回は、黒田九兵衛のことについて触れたいと思います。

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二代目黒田九兵衛直次は1567年(永禄10年)頃に生まれ、1600年(慶長5年9月19日)に没しています。生年は推測です。

信長が今井宗久と繋がり、さらに千利休など堺の商人と接近した頃ですね。初代忠次に転機が訪れた1573年の秀吉が長浜城主となった頃は、現在で言えばまだ小学1年生のようなものです。子供の頃に生き生きと働く父親を見て育ち、元服の頃には秀吉の中国攻めや、また本能寺の変という一大事件に触れて、武士としての立身出世を夢見て育ったに違いありません。

 

最初は、父親と同様に大納言秀長に150石で仕えていました。150石というと兵を150人丸一年食わせることができるので、とても良い待遇です。

その後、尾藤甚右衛門(尾藤知宣)に仕え軍功を上げ感謝されたとあります。

其後尾藤甚右衛門殿に仕え彼地にて一戦の剋軍功の働感状之れ有り其

尾藤知宣は羽柴四天王の一人です。草創期の秀吉家中の古参の中でも最も軍事に精通していたようです。多分、二代目直次は尾藤に付き従って播磨平定に参加していたものと思われます。

その後、1585年秀吉の紀州征伐とその後の四国平定の際に、加藤嘉明に仕えることとなりました。加藤嘉明賤ヶ岳七本槍の一人です。賤ヶ岳で柴田勝家を征伐した頃、加藤嘉明は二十歳前後、四国征伐で伊予を平定し、その功績で淡路の志知城(志智城)の城持ち大名となった時は二十四歳と思われます。二代目黒田九兵衛直次も知行 150 石を賜り御銕鉋頭(御鉄砲頭) を仰せつかっています。

天正十三年(1585 年)七月三明院様淡路国三原郡志智御拝領の節召し抱えられ知行百五十石下され置き御銕鉋頭仰付けられ

ここから幕末まで黒田家は加藤家とのつながりができるわけです。

 

賤ヶ岳七本槍は年長者から順に:

脇坂安治:最年長で当時30歳。関ヶ原では西軍にいたが小早川秀秋の寝返りに乗じて東軍に参加。伊予・大洲城主5万3千石の大名となる。

片桐且元:近江長浜出身で浅井長政に仕えていたが、その後豊臣家家老として秀頼に仕える。大阪の陣で徳川についた。
平野長泰:その後、大きな武功はないが徳川の旗本として3代家光の代まで長寿を全うした。
福島正則関ヶ原では東軍として西軍総大将毛利輝元から大阪城を奪い広島藩49万8千石を得た。
加藤清正関ヶ原では東軍に与し、肥後熊本藩の初代藩主となった。
糟屋武則関ヶ原では石田三成の西軍に与し、晩年は不詳。
加藤嘉明七本槍の中では最も若手で当時二十歳。四国を平定し水軍の将として名を馳せる。

本能寺の変の後に明智光秀を討ち、清洲会議長浜城柴田勝家に譲ったものの、その後柴田勝家を討ち取った中で、「秀吉家中にはこれだけの頼もしい若手重臣が育っており、秀吉勢の基盤は磐石」と旧信長家臣たちに喧伝する意味が七本槍にはあったのだと思います。その後、頭角を表す石田三成も戦いに参加して武功を挙げていました。年齢は平野と福島の間の二十三歳でした。石田三成は文官として豊臣家を牛耳っていきますが、加藤清正も文武両道でした。「清正の虎退治」のイメージが強いですが、文官として三成からライバル視されたので肥後熊本まで飛ばされたのかもしれません。

 

いずれにせよ黒田九兵衛直次の主君となった加藤嘉明七本槍最年少であったわけです。加藤嘉明はもともとは三河の出身で現在で言えば抹茶の盛んな愛知県西尾市です。

松平(徳川)家康の家臣だった加藤家ですが、一向一揆に加担して浪人となりました。講談では嘉明は馬喰として身をたてていたようです。馬を調達する仕事ですね。流浪して近江の長浜に行き、馬の目利きと扱いが上手なので長浜城羽柴秀吉の目に留まり仕官しました。当初は養子の小姓でしたが、まだ十三歳でも血気盛んな嘉明は初陣前の主君を差し置いて播磨攻めに無断で参加してしまい、秀吉の妻おねの怒りを買います。しかし、秀吉は逆にやる気を評価して直臣としました。

 

この頃、初代黒田忠次は豊臣秀長公に仕え、二代目直次は加藤嘉明と同じかちょっと年下くらいの少年です。忠次はこの「無頼の徒でもあり立身出世のパワーを感じる、しかも秀吉の直臣」である嘉明に注目していたかもしれませんね。事実、嘉明は三木合戦で15歳にして2つの首級を挙げるという驚くべき武功を挙げています。

 

秀吉が長宗我部を征伐して四国平定した際に、初めて加藤嘉明が大名として、また二代目直次が嘉明に仕えるようになりました。このコンビは水軍としての力を発揮していきます。淡路水軍は三好氏の家臣の安宅氏が統率していましたが、加藤嘉明が志知城主となってから豊臣方の水軍となりました。秀吉の拠点である大阪城の足元の大阪湾の警護・武器や兵隊の輸送や物資の海上物流を担う役割があったのだと思います。紀州の九鬼水軍や毛利水軍はどちらかと言えば軍船の色彩が強いですが、淡路水軍は海上警備隊・軍資輸送船・軍船の3つのマルチ船団なのだと思います。

 

加藤嘉明は馬は得意、なので槍も得意。しかし、水軍の知識はないはずです。黒田家は琵琶湖北岸の地元の長浜で国内最大の鉄砲鍛冶集団であった国友衆に鉄砲生産を発注し琵琶湖から河川を通って船で輸送をする兵站補給を担っていたので、二代目直次が加藤家の家臣となるのは至極当然だと思います。

 

1590年の小田原征伐では、嘉明と直次の淡路水軍は九鬼水軍とともに参戦。兵隊を清水港に下ろして箱根峠越えで陸上部隊を進軍させると同時に、伊豆半島を回って小田原湾沖で小田原城に砲身を向けていました。直次は鉄砲頭として指揮しています。

天正十八年(1590 年)相模國小田原御陳

 

また朝鮮出兵においても、同様に淡路水軍として参加しています。

文禄元年朝鮮国御征伐等の御供仕り

この際に、日本の水軍は朝鮮の英雄・李舜臣の亀甲船に苦戦しています。李舜臣が傑出した人物であったことは確かですが、軍船としての亀甲船に対して、日本の水軍は軍船というよりも軍資補給船として武器・弾薬・食糧・兵隊の輸送が中心であったことも影響しています。近江の国友衆が製造した大砲も載せましたが、石垣作りで有名な同じ近江の穴太衆も載せて石垣用の巨石や積方の労働者まで運んでいました。秀吉は水攻めや兵糧攻めなどの城攻めを好んでおり、あまり海戦を重視していなかったことも影響していると思います。この朝鮮出兵の功績で加藤家は淡路の志知城から伊予国の大名として四国に移り6万石に加増されます。二代目黒田直次も600石で伊予国野間郡吉田村に知行を拝領します。現代の松前町(松山市の南)です

慶長三年(1598 年)伊豫国眞崎御拝領の節其の御供仕り同国野間郡吉田村で知行六百石下し置かれ

 

秀吉の死後、1600年の関ヶ原では加藤嘉明は東軍につきます。石田三成を嫌っていたのもあるでしょうが、嘉明の父は元々は三河徳川家康の家臣だったことも決定的なのだと思います。嘉明が関ヶ原に参陣した際に、地元の伊予は毛利軍に狙われている気配がありました。そのため、直次は関ヶ原には参加せず、地元で毛利対策として留守を守るように命令を受けます

 

 

 

9月10日に毛利勢50騎余りが伊予の三津浜に襲来します。16 日には佃次郎兵衛尉と直次は敵陣に夜襲を行い敵の首を数球討ち取り毛利方を敗北させます。しかし、毛利勢は八幡山麓の如来寺に立て籠もります。19日、如来寺に向かった直次は門を打ち破り、単騎で駆け入りますが鉄砲の一斉射撃により5発の銃弾を受け討ち死にします。(三津浜夜襲

同五年(1600 年)関ヶ原御出陳の御留守濱手口御門相守る可き仰付けられ同年九月十日毛 利軍勢五十余騎三津濱へ押し寄せ同十六日佃次郎兵衛黒田九兵衛敵陣夜討仕り首数級討 ち取り敵散々敗北
八幡山如来寺へ立て籠り同十九日亦相議し馳せ向い直次長刀石を以って突き如来寺の 門戸打破り勇力を揮って唯一騎馳せ入り戦い仕候処敵方鉄砲烈しく発し団扇指物に七つ 総身に五つ中り(あたり)如来寺に於いて慶長五年九月十九日討ち死に仕候

 

ここでひとつの疑問が湧きます。なぜ直次は無謀にも単騎で乗り込んでいったのかという事です。佃十成は年齢的には直次の父の初代九兵衛忠次とほぼ同い歳。16日では一緒に少人数で毛利方に勝利しています。しかし、如来寺に追い詰めるまでの間に手傷を負ったようです。毛利軍は単独で来襲したのではなく、伊予に残る旧河野氏の残党とも連絡を取っていました。河野氏は伊予に古くからある豪族ですが、土佐長宗我部に攻められたり、また四国平定の際に長く続いた大名の道が閉ざされ、旧河野氏の遺臣らが残っていました。毛利方は遺臣の平岡直房らと呼応しようとしていたのです。美濃の関ヶ原の合戦は9月15日の昼には終結しましたが、その報が届いたのは23日なので直次が乗り込んだ19日時点では勝敗の行方は分かりません。推測ですが「佃も手傷を負い、河野氏遺臣らの動きを考えれば時間をかけるだけ不利になる。指揮官自ら乗り込んで士気を高めるしかない。」と考えたのでしょう。毛利方は形勢不利に加え西軍敗北の報せを受け撤退しました。

 

壮絶な最後を遂げた直次ですが、代々の黒田九兵衛の歴史ではこの二代目黒田九兵衛直次の時代が最も華々しく、また直次の奮闘の功績が徳川が代々黒田家を丁重に扱ってくれたことの礎となっています。水軍の鉄砲頭だったこともあり、江戸時代も鉄砲頭や足軽大将の役目が多かった訳です。加藤家がその後、会津から減封、水口藩主と変遷していきますが、減封時を除いて加藤家に仕え続けました。

 

写真はその頃から伝わる脇差です。

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室町期からの脇差