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黒田九兵衛のこと (2) 初代忠次

(この記事は別のブログから転載しています)

筆者は十六代目黒田九兵衛を継いでいます。今回は、黒田九兵衛のことについて触れたいと思います。

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初代黒田九兵衛忠次は、天正年間(1573年〜1593年)ずっと大和大納言秀長公に仕えたと黒田家の文書には記されています。ただし、あまり詳しい記述はありません。

天正年中大和大納言秀長公随身命終年月相知り申さず候

没した年も分からないので前後の年譜から推測すると1553年頃に生まれて1593年に引退し、1600年前後に没したのではないかと思います。

武田信玄川中島の戦いを始め、秀吉が信長に仕官した頃に生まれたのでしょう。信長とっくに斉藤道三の娘の濃姫を娶り、近江の国友衆に鉄砲500挺を発注した頃です。

 

信長が1560年に桶狭間の戦い今川義元の本陣を奇襲して勝利し、天下に信長の存在が知られることになった頃、初代忠次はまだ年端もいかない子供だったものと思います。その後、信長が堺の今井宗久千利休と取引を開始し、石山本願寺を攻め、紀州の九鬼水軍を取り込み、破竹の勢いを見せていた頃には、元服後の青年になって関心を持っていたかもしれません。

しかし、その頃の黒田家は主家である名門の京極家が1560年に元家臣の裏切りで下剋上した浅井氏に追われ江北(北近江)から追放になって以来、主家から離れて浪人の身であったものと考えられます。きっと初代忠次の目には「情けない愚公の京極家、破竹の勢いの織田信長」という対比がハッキリと映っていたのでしょう。しかし1570年の姉川の戦いで信長は朝倉・浅井の連合軍に敗走します。つまり、この頃までは少なくともじっと身を潜めて浪人で大人しくせざるを得なかったはずです。

 

転機はやはり1573年(天正元年)に織田軍が越前の朝倉氏を一乗谷の戦いで滅し、そのまま浅井長政小谷城を攻め滅ぼしたことでした。羽柴秀吉小谷城から資材を移築し、長浜城を築城して初の城持ち大名となりました。木下藤吉郎から羽柴秀吉となりました。

 

城持ち大名となると家臣を多く召し抱えなければなりません。戦上手も必要ですが、石高や兵糧勘定、城の整備や領民の統制など事務方も必要になってきます。初代黒田九兵衛忠次はこの時に羽柴家に採用されました。落ちぶれたとは言え、宇多源氏の名門京極家は越前の朝倉よりも格上の名家。その京極家の元重臣で、長浜が地元で領民をよく知り、また重要な戦略資源である国友の鉄砲衆も同じ地元で誰よりもよく知っていたからでしょう。この頃の初代忠次は二十歳前後のよく働く青年であったに違いありません。

 

秀吉は長浜城の責任者代行を能吏としても評判の良い秀長に任せます。秀長は地元の名家で事情通でもある初代忠次をうまく使いこなしたはずです。多分、秀長は忠次のひと回り年上で指揮命令系統としては非常にスムーズだったはずです。

実際に2年後の1575年の長篠の戦いでは信長軍の鉄砲3000挺のうち国友製は500挺使われて武田軍を破っています。

この後も1580年の秀吉の播磨・但馬平定、1582年の中国攻めと本能寺の変の後の山崎の戦いなど。秀吉の急成長に伴って、初代忠次もとてもエキサイティングな日々だったことでしょう。

 

同郷の同族には有名な黒田官兵衛がいます。官兵衛は初代忠次よりも七歳くらい年上であったと思われます。しかし、秀吉に官兵衛が仕えたのは1577年頃なので、豊臣軍としては初代忠次は「年下の先輩」になります。また、忠次は戦の最前線よりは、近江をベースとして兵站補給を担っていたのだと思っています。それは事務方の豊臣秀長に仕えていたからでもあり、国友の鉄砲などの軍需物資を手配して、琵琶湖や河川での水上輸送を仕切るには他に適任者はいないだろうからです。従って、裏方の初代黒田九兵衛忠次は、播磨諸派黒田官兵衛の影に隠れて無名なのだと思います。

 

この頃は茶の湯が全盛でした。今井宗久会合衆との仲介で信長と親しくなった1567年から、太閤秀吉に嫌われて千利休切腹する1591年までの25年間の話です。今井宗久は堺の商人ですが、もともとは近江源氏佐々木氏が祖で近江の出身。つまり京極家ともその重臣の黒田家ともつながりがありました。推測にすぎませんが、今井宗久が没するまでの期間と忠次が主君の大納言秀長が没するまで仕えた期間が重なっているので親交はあったものと考えています。特に、羽柴秀吉豊臣秀吉として関白になった1586年頃からの数年間はそうだったのでしょう。

 

初代忠次と元の主家の京極家の関係は分かりません。京極家は何度も城を捨て逃げて愚公と呼ばれたものの秀吉が愛した茶々などの女性との閨閥もあり、また名家であったことで加増されて1595年には京極高次は6万石で大津城の主となりました。ここらへんの話は、直木賞作品の「塞王の楯」の石垣職人集団・穴太衆の話が参考になるかもしれません。これも推測ですが、黒田忠次は「京極家に再び仕える気はないが、名家の重臣だったからこそ豊臣秀長は取り立ててくれた」と感謝していたに違いありません。

 

不運な浪人から豊臣家とともに再興できた初代忠次の人生はきっと幸せであったのだろうと思います。1591年に主君・大和大納言豊臣秀長が没したあとに初代忠次が他家に仕えることはありませんでした。

 

2代目黒田九兵衛直次は父の忠次とはちょっと異なる生き方を歩んでいきます。