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黒田九兵衛のこと (1)

(この記事は別のブログから転載しています)

筆者は十六代目黒田九兵衛を継いでいます。今回は、黒田九兵衛のことについて触れたいと思います。

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黒田九兵衛の初代忠次から2代目直次までの時代は、織田信長が1560年に桶狭間で今川を破って10年後から1600年の関ヶ原の合戦に至るまでの激動の30年間でした。

 

初代忠次は秀吉の弟の大和大納言秀長にずっと仕え、二代目直次は秀長、次に羽柴四天王の一人尾藤甚右衛門知宣に仕え、その後は賤ヶ岳七本槍加藤嘉明に仕えました。有名な黒田官兵衛がもともとは播磨で小寺官兵衛と称していたのとは異なり、九兵衛の出自はずっと北近江の黒田氏です。

 

豊臣秀吉の政権で黒田氏が再興して取り立てられた理由は3つあります。

  1. 鉄砲鍛冶の盛んな近江の国友に精通していた。
  2. 琵琶湖の湖上水運の重要な要諦の北近江に位置する長浜城の地元であった。
  3. 室町幕府において名門の四職のひとつ宇多源氏の京極氏の重臣の家柄であった。

 

秀吉以前

これらを考えるにあたって、まずは家格と秀吉以前の状況を整理しましょう。

 

源氏も平氏も元々は平安期の皇族でした。皇族賜姓といって天皇が姓を与えて臣下に降ろして、皇族の経費を節減することが始まりです。清和源氏は56代清和天皇の皇子が始祖で、頼朝や義経など源氏の最大勢力でした。宇多源氏は59代宇多天皇の皇子が始祖です。他に62代の村上源氏などがあります。清和源氏源満仲の長男の摂津源氏、次男の大和源氏、三男の河内源氏などの集団がありました。鎌倉幕府の頼朝や義経室町幕府を開いた足利尊氏の祖先の源義家河内源氏のグループに属します。

 

当家の祖である佐々木氏(佐々木源氏)は近江国を発祥とする宇多源氏の系統です。宇多天皇の玄孫である源成頼が近江に下向し土着しました。平安末期の西暦1100年頃と推測されます。源平合戦で活躍し勢力を全国に広げました。

 

百年後の1221年、承久の乱の頃に佐々木源氏は四つに分かれます。三男が宗家となり六角氏として六波羅を中心に活動、四男が京極氏となり鎌倉幕府の要職を務め、足利政権の室町幕府でも要職にありました。琵琶湖周辺の近江では京極氏が北近江、六角氏が南近江を所領としていました。室町時代に軍事や京都の警察・徴税などを司る四職守護大名の赤松(播磨)・一色(三河)・京極(近江)・山名(伯耆)の四氏でした。四職に準じる氏族が美濃の土岐氏駿河の今井氏、さらに伊勢氏(三河)・上杉氏(越後)と三管領細川氏三河)、斯波氏(越前)、畠山氏(武蔵)です。

 

黒田家は黒田判官とも呼ばれていました。判官とは律令制の官位の4段階で言えば3番目。最上位が長官。次が次官です。長官は行政機関の太政官としては、左大臣や右大臣に相当します。次官は太政官としては大納言、中納言、参議に相当します。3番目の判官は行政実務全般を統括する官位で、4番目が主典で公文書の草案などの事務を行います。

 

その300年後に、1520年前後には京極氏のお家騒動に便乗した譜代家臣の浅井氏が下克上で京極氏を追放し、北近江を支配するようになりました。その三代目が浅井長政です。宇多源氏の京極氏の重臣として判官の家格であった黒田氏ですが、浅井氏の下克上のとばっちりで放逐されていました。近江に残った黒田氏もいましたし、琵琶湖の北を通って播磨の方に落ち延びた黒田氏もいたのだろうと思います。播磨に住み着いた黒田氏の一派が有名な黒田(小寺)官兵衛です。

ちなみに、高家(こうけ)という呼び方は、江戸幕府における儀式や典礼を司る役職で忠臣蔵吉良上野介が有名ですが、京極家も江戸時代には高家とされました。黒田家は高家ではありませんが、室町幕府四職を務めた京極家の実務全般を取り締まっていたことから、江戸時代まで仕えた加藤家においても一定の格式をもっていました。

 

黒田氏は浅井氏の下克上によって京極氏が追放され、そのあおりを食って北近江で(一部播磨に逃亡して)浅井滅亡までの50年もの間ひっそりと暮らしていたことになります。

 

救いの神だった秀吉

1570年、織田信長が越前の朝倉義景を攻めた時に、義弟であった浅井長政は裏切り信長を窮地に立たせましたが、その後破れました(金ヶ崎の戦い姉川の戦い)。1573年、信長は北近江に出陣。越前朝倉氏を一乗谷の戦いで破り、取って返して浅井氏を攻めました。

この戦いで武功を挙げた木下藤吉郎羽柴秀吉と改名し、浅井氏の本拠であった小谷城の資材を今浜に運び、1576年頃に長浜城を築城しました。こうして、羽柴秀吉は初めて城持ち大名となりました。

 

当家に残されている黒田家の系譜は、この頃から始まります。

羽柴秀吉が城持ち大名となった際にはすでに、初代黒田九兵衛忠次は城代であった弟の羽柴秀長に仕え、天正年間(1573年から1592年)秀長に大和大納言になった後も仕えています。

天正年中大和大納言秀長公随身命終年月相知り申さず候」黒田九兵衛系譜より。

 

鉄砲が伝来したのは1543年。北近江の国友の鍛治がその翌年には早くも鉄砲を作っています。堺衆や根来衆などだけではなく北近江の国友はその後一大産地になります。今井宗久千利休といった堺の商人から鉄砲を調達するだけではなく、織田信長は国友の鉄砲を重視しており、わずか15歳の時の1549年には500丁の鉄砲を発注、1570年には秀吉に国友の鉄砲業の発展を命じています。武田軍を破った1575年の長篠の戦いでは国友製の鉄砲も使われたものと考えられます。記録にはありませんが、ひょっとしたらこの頃から秀吉は北近江の黒田氏と関係があったかもしれません。

 

初代黒田九兵衛忠次が正式に羽柴秀長の家臣となったのは天敵浅井長政が滅びた1573年のことです。城持ち大名とは言え、百姓出身の秀吉は戦上手ではあっても大名家としての内政には知らないことも多く、また家格は見劣りします。浅井攻めによって京極氏も復権しましたが、羽柴家にとっては名門だが実務能力の無い京極氏よりも、その重臣でかつ実務を取り仕切っていた黒田氏を家臣として取り立てた方が都合が良かったものと考えられます。

 

浅井氏が滅亡し長浜城が完成した1573年から1576年頃は、長篠での武田軍への勝利もあって勢いづいており、羽柴秀吉は大幅な人材のテコ入れをしています。1575年には黒田(小寺)官兵衛が秀吉の仲介で織田信長に仕官、1576年には藤堂高虎羽柴秀長に仕官しています。この頃、二代目黒田九兵衛直次は元服するかしないか位の年齢で、後に仕えることになる賤ヶ岳七本槍加藤嘉明もまだ10歳位の少年でした。

 

中国攻めと四国攻め

琵琶湖と近江の支配権を確立し東海・北陸・信濃を抑えた信長・秀吉の次のテーマは、畿内や西方の領地の拡大でした。三好勢・石山本願寺紀州・中国・四国などです。特に、毛利氏は鉄砲傭兵の雑賀衆根来衆と通じて牽制していました。中国攻めのためには緩衝地帯の但馬や播磨を平定し、また大阪湾や瀬戸内海の海運を掌握するためには淡路島を手中にする必要がありました。

 

この頃、信長は毛利氏との戦いに大きな布石をしています。毛利に敗れたものの中国地方の勢力を二分していた尼子氏は佐々木源氏の庶流。京極氏やその重臣の黒田氏も佐々木源氏の系統です。黒田一族を再興し、尼子遺臣団に加勢し、毛利対策を行ったとも言えます。一方、淡路島では、毛利方についた土豪出身の安宅清康の由良城と淡路守護細川氏の家臣だった三好氏が治める織田方の志知城とが対峙していました。

ところが1582年に本能寺の変が起きます。信長亡き後の清洲会議では妥協策として長浜城主を譲り受けたものの柴田勝家の影響力が低下、羽柴秀吉重臣筆頭となりました。同年の賤ヶ岳の戦い柴田勝家は越前に敗走しました。これによって、信長の後継者としての秀吉の地位が確立しました。豊臣秀吉が関白となるのはわずか3年後の事でした。その1585年に秀吉は紀州攻めと四国攻めを行い西方の地盤を確立しました。特に紀州攻めにおいて鉄砲傭兵の雑賀衆を全滅させたことが奏功しました。

 

要諦の淡路島には洲本城に脇坂安治、志知城に加藤嘉明を配して治めさせています。この際に二代目黒田九兵衛直次は加藤嘉明に召し抱えられ知行150石を賜り御鉄砲頭を仰せつかっています。

 

初代九兵衛の忠次と二代目の直次には、鉄砲・琵琶湖・水路(水軍)のキーワードがつきまといます。九兵衛直次は淡路水軍の鉄砲頭として活躍します。私見ですが、北近江の国友で製造された鉄砲は琵琶湖の北岸から南岸の大津を経由して川を通って大阪湾に運ばれたのだと考えます。大津から宇治を通り、淀川を通ってです。同じ川ですが、瀬田川宇治川桂川・木津川・淀川と名前が変わります。重量のある鉄砲の運搬にはこれが最も合理的です。黒田家の領地は国友鉄砲の製造地であり、また湖上水運の拠点でもあったため船の知識がありました。黒田家が豊臣家にもたらしたものは、宇多源氏京極氏の家格だけではなく、鉄砲と水軍という軍事的な側面も強いのだと思います。雑賀衆根来衆などの鉄砲傭兵は、寺社勢力の強かった紀州攻めにおいて全滅し羽柴秀長が統治することとなりました。

 

その後、1587年に豊臣秀長も大和大納言になっています。初代忠次は加藤家家臣となることはなく最後まで豊臣秀長に付き従いました。

 

二代目九兵衛直次は勇猛果敢な若者で1590年の小田原征伐では淡路水軍として九鬼水軍とともに出兵。鉄砲頭を務めました。また、1592年から翌年に及んだ2回の朝鮮出兵においても鉄砲頭として淡路水軍も参加しました。この功績によって1598年に加藤嘉明が伊予の眞崎を拝領した折に、直次も伊予の野間郡吉田村(現在の松前町)に知行600石を賜っています。

 

直次討死

1600 年 加藤嘉明が東軍・家康方として参加した関ヶ原合戦の際に、浜手口御門(海沿いに面した御門)守護の留守居を仰せつかったところ、9 月 10 日毛利軍勢 50 騎以上が三津浜(松山市西部)に襲来しました。9月16 日に佃次郎兵衛尉(佃十成)と黒田九兵衛直次は敵陣に夜襲を行い敵の首を数球討ち取り、敵の毛利方を散々に敗北させました。しかし、毛利方は八幡山麓の如来寺(松山市東の如来院および日尾八幡神社)に籠城。19 日に討議して直次は如来寺に向かい門を打ち破り、勇猛果敢にただ一騎で駆け入りましたが、敵方の鉄砲射撃が烈しく銃弾を受け団扇や指物に7 発、総身に5 発の銃弾を受け、1600年9月19 日討ち死にしました。

 

死後、加藤嘉明如来寺を見聞した際に直次の弟の松に家督相続を命じました。その後、三代目九兵衛忠直となって加藤嘉明の長子である加藤明成に付き従い大阪夏の陣に出陣しています。

 

徳川の時代

黒田家は徳川の時代も加藤家に仕えていました。加藤家が会津42万石に転封となった際も一緒でした。佃十成は讃岐出身であったため伊予に残り伊予松山藩家老となりました。1643年に加藤家が会津騒動で会津藩を返上し石見吉永藩1万石に減封となった際には、一時的に伊勢の久松松平家桑名藩)に召し抱えられ御物頭(足軽大将)として過ごしています。

しかし、1682年に加藤家が水口藩主として2万石となると黒田家は加藤家の家臣として復帰しています。この頃の加藤家当主の加藤明友は大名にとって出世の登竜門的な役職で武家の礼式を管理する奏者番となっています。五代将軍綱吉の頃です。

 

五代目の黒田九兵衛直政は八代将軍吉宗の頃です。人材抜擢による刷新を行なった吉宗から御旗奉行(老中に属し将軍の軍旗を管掌)に取り立てられました。甲賀市水口町綾野に屋敷を構えていました。特段に功があったわけではありませんが、黒田家は下克上なく存続した八家のうちの京極氏であったため、名誉職として賜ったものと考えられます。

 

余談ですが、当家には二振りの脇差が伝わっています。ひとつは短脇差で室町期のもので関の銘が打ってあります。これは初代の忠次または二代目直次のものと思われます。傷もあります。もうひとつは傷一つない長脇差で江戸期の作です。銘がなく長脇差としての価値は定かではありませんが、その鍔が驚愕でした。江戸中期の名人金工師である奈良利寿の作なのです。奈良派を代表する利寿の鍔は数点しか存在しないと言われ、ひとつは重要文化財の国宝となっています。筆者の自宅で保管するにはあまりに不用心なので、某公共の博物館に寄託して保管してもらっています。

五代目直政は禄こそ決して多くありませんでしたが、めでたい名誉職に奮発したものと思われます。

 

その後も黒田九兵衛は11代目の直尋の幕末の頃まで御物頭(足軽大将)を水口城で務めました。なお、水口藩は戊辰戦争の際には官軍に味方しています。最後の水口藩主は廃藩置県の後に子爵として東京に在住。黒田家もその後、東京へと移り住みました。