私塾「花草舎 KaSoSha」

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黒田九兵衛のこと (3) :三代目忠直と五代目直政

(この記事は別のブログから転載しています)

筆者は十六代目黒田九兵衛を継いでいます。今回は、黒田九兵衛のことについて触れたいと思います。

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菩提寺に残されていた黒田九兵衛の記録は幕末の12代目まで続いています。明治から12代目で私は16代目になります。

初代忠次と二代目直次の時代は、長浜城から関ヶ原の合戦までなので、わずか28年間の出来事です。しかし、この約30年が最も興味をそそられます

 

その後、代々の九兵衛は概ね御物頭足軽大将などの職に就きます。「物とは武器」を意味するので、鉄砲や大砲、槍などの武器です。近江の国友衆を管理したので自然な流れです。

 

戦国時代の三大鉄砲鍛冶と言えば、国友・堺・根来です。堺は商人なので金を出せばどの大名にも売る、根来は商売というよりも傭兵の色彩が濃い集団でした。国友鉄砲衆は基本的に織田信長豊臣秀吉のためだけの鉄砲生産基地です。関ヶ原や大阪の陣の頃には最盛期でしたが、江戸の太平の世になると需要は急落します。

 

直木賞作品「塞王の盾」の主人公の石垣職人の穴太(あのう)衆は太平の世にも壮麗な城の石垣づくりや補修工事の需要があり存続できます。実際に、坂本の栗田家は今は株式会社栗田建設として存続し、現在が十五代目だそうです。城壁の盾は存続しますが、攻撃の矛である鉄砲は無用となりました。

 

そんな平和な時代の御物頭(鉄砲隊隊長)や足軽大将ですから名誉職ではあっても閑職です。その中で三代目と五代目だけ記しておきます。

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三代目黒田九兵衛忠直

戦死した直次の弟です。

慶長五年十月三州院様如来寺の合戦場御見聞の為御出馬弟松爾入共御供仕り如来寺に於いて御膝元へ召し寄 せられ直次討死の儀厚く御貴詞成し下され置き其の上家督仰せ付けられ知行三百石下し置かれ御近習役仰せ付けられ同九年十月二十二日百石御加増下し置かれ同十五年故有って御勘気を蒙り京都大徳寺に罷り越し落髪名休三改五カ年間同寺に罷り在り

要するに加藤嘉明と検分に同行した弟の松はその場で家督相続を命じられ三代目忠直となった訳です。

 

元和元年(1615 年)大阪夏の陣の節圓通院様の御供仕り同四年(1618 年)陸奥国会津御拝領の節其の供仕り其の節二百石御加増下し置かれ都合六 百石と成り下し置かれ寛永十一年(1634 年)七月御上洛の節圓通院様供に就き奉り遊ばされ候。御先乗仰せ付けられ御先手組外に御持筒拾人差し添えられ御供仕り同廿年(1643 年)五月三日圓通院様会津差し上げられし後勢州幸名城主松平越中守定綱候罷り出宛行三拾人扶持二百石下し置かれ御物役相勤め慶安二年(1649 年)正月七日病死仕り候

 

大阪夏の陣には加藤嘉明の長男の加藤明成に随行し参戦しています。また京都上洛の際には先発隊として持ち筒(中砲)部隊長を務めています。

 

加藤家は1618年に会津42万石として転封となりました。年配の佃は伊予に残り、黒田家は加藤家に伴って会津に移りました。この上洛は会津後時代の話です。

しかし、加藤家の会津藩が大失態をしでかしてしまいます、会津騒動です。これは加藤嘉明の若殿明成と先代からの筆頭家老の堀主水が喧嘩をして主水が出奔するという騒動で、幕府が聞き及び所領が返上となった騒動です。これによって、加藤家は加賀百万石に匹敵する42万石の大大名から石見吉永藩 1 万石に移封となってしまいました。

これでは家臣たちを養うことはできません。三代目忠直も浪人の身になるところでしたが、松平越中守定綱が手を差し伸べ彼の地元である久松松平家桑名藩の御物頭として200石で召し抱えられました。御物頭とは番頭とも呼ばれ番方(軍事)職務で、合戦では一軍を率いて指揮する武将となり、平時は警備責任者となります。江戸期には合戦がないので名誉職ですが格式は高かったようです。ここでも名家京極家筋であることと、二代目直次と加藤嘉明の縁に助けられた格好です。また久松松平家会津と伊予で入れ替わった蒲生家の後に伊予松山藩主となっており、二代目黒田九兵衛直次のことは聞き及んでいた可能性もあります。

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五代目黒田九兵衛直政

寥々院様御代宝永三年(1706 年)三月十六日命に依って黒田家相続仰せ付けられ御宛行十 五人扶持下し置かれ御物頭仰せ付けられ組方御預り屋敷綾野に於いて下し置かれ候

覚音院様御代 享保二年(1717 年)七月廿三日五人扶持御加増下し置かれ同四年十一月九日 御旗奉行仰せ付けられ同八年(1723 年)正月二十五日病死仕り候

 

1682年には加藤家は近江の水口で立藩を許され加藤嘉明の孫の加藤明友の代で2万石の水口城藩主となりました。小藩ながら譜代の格式となり寺社奉行若年寄と幕府の要職も務めました。その後、一時的に能登の譜代鳥居忠英が水口に入部して奏者番(武家の礼法を管理)と寺社奉行(将軍直轄の三奉行の最上位)を務めています。その後は再び幕末まで加藤家が藩主を務めました。

五代目直政は1706年に久松松平桑名藩から水口藩に戻り、再び御物頭となっています

水口の綾野に屋敷を賜ったとされています(現在の甲賀市水口町綾野で綾野天満宮の近く)。さらに1717年に御旗奉行を仰せつかる栄誉を得ています。これは将軍の軍旗・馬標(うまじるし)などを管掌する役目で、藩主の幕府内での昇進によって回ってきた職だと思います。

五代目直政が水口に戻った頃は五代将軍徳川綱吉の時代でしたが、その後六代家宣、七代家継と短い治世でした、直政が御旗奉行を仰せつかった1717年は八代目徳川吉宗暴れん坊将軍)の治世2年目です。政治改革を断行した吉宗は将軍となって間もなく、地元紀州藩士のなかでも大役に就いていない家臣を40名余りを選んで、江戸へ迎え入れました。これによって旧来の権力者の側近が牛耳る政治に反感を抱いていた譜代大名や旗本からも好感を持たれるようになったと言われています。五代目九兵衛直政は紀州藩士ではありませんが、譜代格の水口藩もその対象となったのかもしれません

 

当家には江戸中期の名工奈良利寿の鍔が残されています。貴重な物なので某公立博物館に寄託していますが。日本の刀のうち一本は二代目直次か初代のもので室町期に作られたもの、もうひとつは江戸期に作られた刀です。この江戸期の刀の鍔として使われていました。奈良利寿は江戸で活躍した名工で、近江の水口までは出張して来ません。直政が御旗奉行として江戸詰めしていたときに作らせたものと想像しています。直政が御旗奉行になった頃、奈良利寿は52 歳なので円熟の技が刻まれています。

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その後の黒田九兵衛は幕末まで加藤家水口藩の家臣として御物頭を主としながら、御使者番、御徒士頭、御供頭などの役目をこなしてきたようです。

幕末の十一代目黒田九兵衛直尋で1864年池田屋襲撃事件の年に没し、十二代目黒田完爾は明治35年まで生きました。水口藩は戊辰戦争では官軍に味方しています。最後の水口藩主加藤明実は廃藩置県の後に子爵として東京に在住。この時に藩士たちも東京に移住しました。黒田家も同様です。その中には、その後親交が続いた藩医の巖谷家や菩提寺の住職の先祖も同様でした。

黒田九兵衛のこと (3) 二代目直次

(この記事は別のブログから転載しています)

筆者は十六代目黒田九兵衛を継いでいます。今回は、黒田九兵衛のことについて触れたいと思います。

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二代目黒田九兵衛直次は1567年(永禄10年)頃に生まれ、1600年(慶長5年9月19日)に没しています。生年は推測です。

信長が今井宗久と繋がり、さらに千利休など堺の商人と接近した頃ですね。初代忠次に転機が訪れた1573年の秀吉が長浜城主となった頃は、現在で言えばまだ小学1年生のようなものです。子供の頃に生き生きと働く父親を見て育ち、元服の頃には秀吉の中国攻めや、また本能寺の変という一大事件に触れて、武士としての立身出世を夢見て育ったに違いありません。

 

最初は、父親と同様に大納言秀長に150石で仕えていました。150石というと兵を150人丸一年食わせることができるので、とても良い待遇です。

その後、尾藤甚右衛門(尾藤知宣)に仕え軍功を上げ感謝されたとあります。

其後尾藤甚右衛門殿に仕え彼地にて一戦の剋軍功の働感状之れ有り其

尾藤知宣は羽柴四天王の一人です。草創期の秀吉家中の古参の中でも最も軍事に精通していたようです。多分、二代目直次は尾藤に付き従って播磨平定に参加していたものと思われます。

その後、1585年秀吉の紀州征伐とその後の四国平定の際に、加藤嘉明に仕えることとなりました。加藤嘉明賤ヶ岳七本槍の一人です。賤ヶ岳で柴田勝家を征伐した頃、加藤嘉明は二十歳前後、四国征伐で伊予を平定し、その功績で淡路の志知城(志智城)の城持ち大名となった時は二十四歳と思われます。二代目黒田九兵衛直次も知行 150 石を賜り御銕鉋頭(御鉄砲頭) を仰せつかっています。

天正十三年(1585 年)七月三明院様淡路国三原郡志智御拝領の節召し抱えられ知行百五十石下され置き御銕鉋頭仰付けられ

ここから幕末まで黒田家は加藤家とのつながりができるわけです。

 

賤ヶ岳七本槍は年長者から順に:

脇坂安治:最年長で当時30歳。関ヶ原では西軍にいたが小早川秀秋の寝返りに乗じて東軍に参加。伊予・大洲城主5万3千石の大名となる。

片桐且元:近江長浜出身で浅井長政に仕えていたが、その後豊臣家家老として秀頼に仕える。大阪の陣で徳川についた。
平野長泰:その後、大きな武功はないが徳川の旗本として3代家光の代まで長寿を全うした。
福島正則関ヶ原では東軍として西軍総大将毛利輝元から大阪城を奪い広島藩49万8千石を得た。
加藤清正関ヶ原では東軍に与し、肥後熊本藩の初代藩主となった。
糟屋武則関ヶ原では石田三成の西軍に与し、晩年は不詳。
加藤嘉明七本槍の中では最も若手で当時二十歳。四国を平定し水軍の将として名を馳せる。

本能寺の変の後に明智光秀を討ち、清洲会議長浜城柴田勝家に譲ったものの、その後柴田勝家を討ち取った中で、「秀吉家中にはこれだけの頼もしい若手重臣が育っており、秀吉勢の基盤は磐石」と旧信長家臣たちに喧伝する意味が七本槍にはあったのだと思います。その後、頭角を表す石田三成も戦いに参加して武功を挙げていました。年齢は平野と福島の間の二十三歳でした。石田三成は文官として豊臣家を牛耳っていきますが、加藤清正も文武両道でした。「清正の虎退治」のイメージが強いですが、文官として三成からライバル視されたので肥後熊本まで飛ばされたのかもしれません。

 

いずれにせよ黒田九兵衛直次の主君となった加藤嘉明七本槍最年少であったわけです。加藤嘉明はもともとは三河の出身で現在で言えば抹茶の盛んな愛知県西尾市です。

松平(徳川)家康の家臣だった加藤家ですが、一向一揆に加担して浪人となりました。講談では嘉明は馬喰として身をたてていたようです。馬を調達する仕事ですね。流浪して近江の長浜に行き、馬の目利きと扱いが上手なので長浜城羽柴秀吉の目に留まり仕官しました。当初は養子の小姓でしたが、まだ十三歳でも血気盛んな嘉明は初陣前の主君を差し置いて播磨攻めに無断で参加してしまい、秀吉の妻おねの怒りを買います。しかし、秀吉は逆にやる気を評価して直臣としました。

 

この頃、初代黒田忠次は豊臣秀長公に仕え、二代目直次は加藤嘉明と同じかちょっと年下くらいの少年です。忠次はこの「無頼の徒でもあり立身出世のパワーを感じる、しかも秀吉の直臣」である嘉明に注目していたかもしれませんね。事実、嘉明は三木合戦で15歳にして2つの首級を挙げるという驚くべき武功を挙げています。

 

秀吉が長宗我部を征伐して四国平定した際に、初めて加藤嘉明が大名として、また二代目直次が嘉明に仕えるようになりました。このコンビは水軍としての力を発揮していきます。淡路水軍は三好氏の家臣の安宅氏が統率していましたが、加藤嘉明が志知城主となってから豊臣方の水軍となりました。秀吉の拠点である大阪城の足元の大阪湾の警護・武器や兵隊の輸送や物資の海上物流を担う役割があったのだと思います。紀州の九鬼水軍や毛利水軍はどちらかと言えば軍船の色彩が強いですが、淡路水軍は海上警備隊・軍資輸送船・軍船の3つのマルチ船団なのだと思います。

 

加藤嘉明は馬は得意、なので槍も得意。しかし、水軍の知識はないはずです。黒田家は琵琶湖北岸の地元の長浜で国内最大の鉄砲鍛冶集団であった国友衆に鉄砲生産を発注し琵琶湖から河川を通って船で輸送をする兵站補給を担っていたので、二代目直次が加藤家の家臣となるのは至極当然だと思います。

 

1590年の小田原征伐では、嘉明と直次の淡路水軍は九鬼水軍とともに参戦。兵隊を清水港に下ろして箱根峠越えで陸上部隊を進軍させると同時に、伊豆半島を回って小田原湾沖で小田原城に砲身を向けていました。直次は鉄砲頭として指揮しています。

天正十八年(1590 年)相模國小田原御陳

 

また朝鮮出兵においても、同様に淡路水軍として参加しています。

文禄元年朝鮮国御征伐等の御供仕り

この際に、日本の水軍は朝鮮の英雄・李舜臣の亀甲船に苦戦しています。李舜臣が傑出した人物であったことは確かですが、軍船としての亀甲船に対して、日本の水軍は軍船というよりも軍資補給船として武器・弾薬・食糧・兵隊の輸送が中心であったことも影響しています。近江の国友衆が製造した大砲も載せましたが、石垣作りで有名な同じ近江の穴太衆も載せて石垣用の巨石や積方の労働者まで運んでいました。秀吉は水攻めや兵糧攻めなどの城攻めを好んでおり、あまり海戦を重視していなかったことも影響していると思います。この朝鮮出兵の功績で加藤家は淡路の志知城から伊予国の大名として四国に移り6万石に加増されます。二代目黒田直次も600石で伊予国野間郡吉田村に知行を拝領します。現代の松前町(松山市の南)です

慶長三年(1598 年)伊豫国眞崎御拝領の節其の御供仕り同国野間郡吉田村で知行六百石下し置かれ

 

秀吉の死後、1600年の関ヶ原では加藤嘉明は東軍につきます。石田三成を嫌っていたのもあるでしょうが、嘉明の父は元々は三河徳川家康の家臣だったことも決定的なのだと思います。嘉明が関ヶ原に参陣した際に、地元の伊予は毛利軍に狙われている気配がありました。そのため、直次は関ヶ原には参加せず、地元で毛利対策として留守を守るように命令を受けます

 

 

 

9月10日に毛利勢50騎余りが伊予の三津浜に襲来します。16 日には佃次郎兵衛尉と直次は敵陣に夜襲を行い敵の首を数球討ち取り毛利方を敗北させます。しかし、毛利勢は八幡山麓の如来寺に立て籠もります。19日、如来寺に向かった直次は門を打ち破り、単騎で駆け入りますが鉄砲の一斉射撃により5発の銃弾を受け討ち死にします。(三津浜夜襲

同五年(1600 年)関ヶ原御出陳の御留守濱手口御門相守る可き仰付けられ同年九月十日毛 利軍勢五十余騎三津濱へ押し寄せ同十六日佃次郎兵衛黒田九兵衛敵陣夜討仕り首数級討 ち取り敵散々敗北
八幡山如来寺へ立て籠り同十九日亦相議し馳せ向い直次長刀石を以って突き如来寺の 門戸打破り勇力を揮って唯一騎馳せ入り戦い仕候処敵方鉄砲烈しく発し団扇指物に七つ 総身に五つ中り(あたり)如来寺に於いて慶長五年九月十九日討ち死に仕候

 

ここでひとつの疑問が湧きます。なぜ直次は無謀にも単騎で乗り込んでいったのかという事です。佃十成は年齢的には直次の父の初代九兵衛忠次とほぼ同い歳。16日では一緒に少人数で毛利方に勝利しています。しかし、如来寺に追い詰めるまでの間に手傷を負ったようです。毛利軍は単独で来襲したのではなく、伊予に残る旧河野氏の残党とも連絡を取っていました。河野氏は伊予に古くからある豪族ですが、土佐長宗我部に攻められたり、また四国平定の際に長く続いた大名の道が閉ざされ、旧河野氏の遺臣らが残っていました。毛利方は遺臣の平岡直房らと呼応しようとしていたのです。美濃の関ヶ原の合戦は9月15日の昼には終結しましたが、その報が届いたのは23日なので直次が乗り込んだ19日時点では勝敗の行方は分かりません。推測ですが「佃も手傷を負い、河野氏遺臣らの動きを考えれば時間をかけるだけ不利になる。指揮官自ら乗り込んで士気を高めるしかない。」と考えたのでしょう。毛利方は形勢不利に加え西軍敗北の報せを受け撤退しました。

 

壮絶な最後を遂げた直次ですが、代々の黒田九兵衛の歴史ではこの二代目黒田九兵衛直次の時代が最も華々しく、また直次の奮闘の功績が徳川が代々黒田家を丁重に扱ってくれたことの礎となっています。水軍の鉄砲頭だったこともあり、江戸時代も鉄砲頭や足軽大将の役目が多かった訳です。加藤家がその後、会津から減封、水口藩主と変遷していきますが、減封時を除いて加藤家に仕え続けました。

 

写真はその頃から伝わる脇差です。

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室町期からの脇差

 

黒田九兵衛のこと (2) 初代忠次

(この記事は別のブログから転載しています)

筆者は十六代目黒田九兵衛を継いでいます。今回は、黒田九兵衛のことについて触れたいと思います。

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初代黒田九兵衛忠次は、天正年間(1573年〜1593年)ずっと大和大納言秀長公に仕えたと黒田家の文書には記されています。ただし、あまり詳しい記述はありません。

天正年中大和大納言秀長公随身命終年月相知り申さず候

没した年も分からないので前後の年譜から推測すると1553年頃に生まれて1593年に引退し、1600年前後に没したのではないかと思います。

武田信玄川中島の戦いを始め、秀吉が信長に仕官した頃に生まれたのでしょう。信長とっくに斉藤道三の娘の濃姫を娶り、近江の国友衆に鉄砲500挺を発注した頃です。

 

信長が1560年に桶狭間の戦い今川義元の本陣を奇襲して勝利し、天下に信長の存在が知られることになった頃、初代忠次はまだ年端もいかない子供だったものと思います。その後、信長が堺の今井宗久千利休と取引を開始し、石山本願寺を攻め、紀州の九鬼水軍を取り込み、破竹の勢いを見せていた頃には、元服後の青年になって関心を持っていたかもしれません。

しかし、その頃の黒田家は主家である名門の京極家が1560年に元家臣の裏切りで下剋上した浅井氏に追われ江北(北近江)から追放になって以来、主家から離れて浪人の身であったものと考えられます。きっと初代忠次の目には「情けない愚公の京極家、破竹の勢いの織田信長」という対比がハッキリと映っていたのでしょう。しかし1570年の姉川の戦いで信長は朝倉・浅井の連合軍に敗走します。つまり、この頃までは少なくともじっと身を潜めて浪人で大人しくせざるを得なかったはずです。

 

転機はやはり1573年(天正元年)に織田軍が越前の朝倉氏を一乗谷の戦いで滅し、そのまま浅井長政小谷城を攻め滅ぼしたことでした。羽柴秀吉小谷城から資材を移築し、長浜城を築城して初の城持ち大名となりました。木下藤吉郎から羽柴秀吉となりました。

 

城持ち大名となると家臣を多く召し抱えなければなりません。戦上手も必要ですが、石高や兵糧勘定、城の整備や領民の統制など事務方も必要になってきます。初代黒田九兵衛忠次はこの時に羽柴家に採用されました。落ちぶれたとは言え、宇多源氏の名門京極家は越前の朝倉よりも格上の名家。その京極家の元重臣で、長浜が地元で領民をよく知り、また重要な戦略資源である国友の鉄砲衆も同じ地元で誰よりもよく知っていたからでしょう。この頃の初代忠次は二十歳前後のよく働く青年であったに違いありません。

 

秀吉は長浜城の責任者代行を能吏としても評判の良い秀長に任せます。秀長は地元の名家で事情通でもある初代忠次をうまく使いこなしたはずです。多分、秀長は忠次のひと回り年上で指揮命令系統としては非常にスムーズだったはずです。

実際に2年後の1575年の長篠の戦いでは信長軍の鉄砲3000挺のうち国友製は500挺使われて武田軍を破っています。

この後も1580年の秀吉の播磨・但馬平定、1582年の中国攻めと本能寺の変の後の山崎の戦いなど。秀吉の急成長に伴って、初代忠次もとてもエキサイティングな日々だったことでしょう。

 

同郷の同族には有名な黒田官兵衛がいます。官兵衛は初代忠次よりも七歳くらい年上であったと思われます。しかし、秀吉に官兵衛が仕えたのは1577年頃なので、豊臣軍としては初代忠次は「年下の先輩」になります。また、忠次は戦の最前線よりは、近江をベースとして兵站補給を担っていたのだと思っています。それは事務方の豊臣秀長に仕えていたからでもあり、国友の鉄砲などの軍需物資を手配して、琵琶湖や河川での水上輸送を仕切るには他に適任者はいないだろうからです。従って、裏方の初代黒田九兵衛忠次は、播磨諸派黒田官兵衛の影に隠れて無名なのだと思います。

 

この頃は茶の湯が全盛でした。今井宗久会合衆との仲介で信長と親しくなった1567年から、太閤秀吉に嫌われて千利休切腹する1591年までの25年間の話です。今井宗久は堺の商人ですが、もともとは近江源氏佐々木氏が祖で近江の出身。つまり京極家ともその重臣の黒田家ともつながりがありました。推測にすぎませんが、今井宗久が没するまでの期間と忠次が主君の大納言秀長が没するまで仕えた期間が重なっているので親交はあったものと考えています。特に、羽柴秀吉豊臣秀吉として関白になった1586年頃からの数年間はそうだったのでしょう。

 

初代忠次と元の主家の京極家の関係は分かりません。京極家は何度も城を捨て逃げて愚公と呼ばれたものの秀吉が愛した茶々などの女性との閨閥もあり、また名家であったことで加増されて1595年には京極高次は6万石で大津城の主となりました。ここらへんの話は、直木賞作品の「塞王の楯」の石垣職人集団・穴太衆の話が参考になるかもしれません。これも推測ですが、黒田忠次は「京極家に再び仕える気はないが、名家の重臣だったからこそ豊臣秀長は取り立ててくれた」と感謝していたに違いありません。

 

不運な浪人から豊臣家とともに再興できた初代忠次の人生はきっと幸せであったのだろうと思います。1591年に主君・大和大納言豊臣秀長が没したあとに初代忠次が他家に仕えることはありませんでした。

 

2代目黒田九兵衛直次は父の忠次とはちょっと異なる生き方を歩んでいきます。

 

 

 

 

 

コロナ禍の出社による蔓延リスクを労働法で制御すべき

私塾「花草舎」塾頭の九兵衛です。

 

コロナ禍の出社による蔓延リスクを労基法で制御すべきという話です。

厚労省はHPで以下の解釈を示しています。

  • 指定感染症なので、感染が判明した場合は感染症法に基づき、知事が就業制限や入院の勧告等を行うことができる。(企業ではなく知事の判断)
  • あくまでも感染症法の範疇であって、労働安全衛生法第68条に基づく病者の就業禁止の措置の対象ではない。(企業の義務ではない)

なぜ、労働安全衛生法ではないのかというと、こんな古臭い通達が生きているからだと思います。

「伝染させるおそれが著しいと認められる結核にかかっている者」

(平成12年3月30日基発207号)

わざわざ、通達レベルで結核と特定しちゃっています。

しかし、労安則61条1項1号では「病毒伝播のおそれのある伝染性の疾病にかかつた者」となっています。

 

労働安全法レベル(国会の立法レベル)では配慮された条文になっており、省令レベルでは、一応解釈できる範囲に規則になっているにもかかわらず、20年前の局長が「結核」に限定してしまったために、適用除外になってしまった訳です。

 

そんな古臭くて時代に合わない通達は変えれば良い。そう思うのが世間の一般常識ですが、霞ヶ関はXX年前の局長は今の事務次官、または事務次官OBということになり、後輩が先輩の判断を覆せない「負の硬直的構造」となっているのは周知の事実。一筋縄では行かないのでしょうね。

ですので、議員が改正法を特措法などの時限立法でも良いから強制的に変更しなければなりません。最も簡単なのは、労安則61条1項1号は「病毒伝播のおそれのある伝染性の疾病(指定感染症を含む)にかかつた者」とするのが良いと思います。

 

つまり、事務職・営業職についてはコロナ禍で出社させたことで(意図せざるであっても)蔓延に加担した企業責任を労働安全法で問うべきですね。物流や研究所、工場などの勤務場所の代替が効かない職種については、社外のとの接触を避けるために、通勤バスなどの移動措置を含めた拡散防止措置を義務づけるべきです。

 

蔓延防止措置条例や緊急事態宣言などだけではなく、また飲食店などのみに負担を求めるのではなく、企業も蔓延の加害者になりうるので相応の義務が必要です。

 

ここら辺の解釈は政府内や厚労省でも議論があったのかもしれません。しかし「経済を回すことが優先」で企業に義務付けるのはやりたくないという意思が働いたのかもしれません。しかし、労働安全法は経済成長率や国の財政負担とは全く次元の異なる問題であって、そのような周辺事情とは分離独立して機能すべきです。仮に、そのようなことが行われたのであれば、政治家(または官僚)が恣意的に他の法律を侵害したという行為になります。

 

ビジネス編:ブランドにこだわる(2)

私塾「花草舎」塾頭の九兵衛です。

 

ブランドを作り世の中に定着させていく。今回はこれがテーマです。

これが事業の全てと言っても良いくらいです。しかしブランドに無頓着に企業が多いの事実です。

「ブランドというのはアイデンティティです。社名や商品名は単なる記号と同じです。」これは企業側からの眼ではなく、第三者からの眼で言っています。

太郎商店と次郎商会などの社名や、酵素たっぷりのインスタント味噌汁や茨城県産の甘〜いサツマイモという商品名も、固有であることを識別する記号にしか過ぎません。消費者にとっては社名も商品名も世の中に氾濫しているので、固有の識別記号である社名や商品名を覚えてくれと言っても無理な相談です。

ところが、アイデンティとなると、単なる識別記号ではなくなります

酵素の味噌汁 "TARO"」とか「極上の甘さを茨城から・サツマイモの"JIRO"」とすれば、消費者は初めて名前を耳にしても商品や事業のイメージを連想することができます。これはTAROやJIROがアイデンティティを持ったことになります。

ロゴマークは次に大切です。TAROのフォントをゴシック体で表せば、酵素パワーの力強さをイメージでき、明朝体のような細い書体を使えば身体に優しいイメージを表現できるかもしれません。マークは酵素と味噌汁をうまくマークに表現できれば良いですが、そのブランドが目指すイメージの抽象的なデザインでも構いません。

形式上のブランドは「ブランド名+修飾語(キャッチフレーズ)+マーク」で構成されて、消費者が連想できるアイデンティティになります。

これらの3点セットは、広告に入れるだけではなく、Webサイト、製品、カタログ、書類のレターヘッド、メールのフッター署名欄など、外部との接点となる全ての媒体に入れる方が良いですね。

 

さて、これだけではあくまでも形式上にしか過ぎません。場合のよっては「看板に偽りあり」となるからです。

ブランドを偽りとするかしないかは、筆者はミッションや哲学にあると思います。太郎商店が味噌汁にわざわざ酵素の味噌汁といているのは何故かということです。味噌はそもそも発酵食品なので、その発酵方法にこだわりがあるのか?それとも通常の味噌だけではなく特別な素材が加えられているのか?そして、それは何故なのか?ということです。

「創業者が味噌の発酵過程でAという素材を加えることで、まろやかな優しい味になるだけではなく、Bという効果があることを見つけた。その製法を完成させるために多くの歳月を要した。これを頑なに継承し製品群を発展させることが当社のミッションである。」

これはもちろん架空の例ですが、ブランドを支える重要で不可欠なミッションや哲学で形式上に対して実質上のブランドと言えます。

 

中小企業、小規模企業、個人事業者であってもこのようにブランドは作ることが可能です。ブランドを確立するということになると、宣伝広告や流通チャネルでの露出や時間の3つが必要です。

大企業では宣伝広告の多額の予算を投入し、多くのスーパーなどの流通で陳列し、短時間でブランドを浸透し確立することができるかもしれません。しかし、中小企業から個人事業者であっても、「広告x流通チャネルx時間」の掛け算の式は一緒です。地道に時間をかければブランドは浸透していきます。

 

中小企業・小規模企業・個人事業者の皆さん、ぜひブランドにこだわってみてください。

 

塾頭 九兵衛

 

 

黒田九兵衛のこと (1)

(この記事は別のブログから転載しています)

筆者は十六代目黒田九兵衛を継いでいます。今回は、黒田九兵衛のことについて触れたいと思います。

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黒田九兵衛の初代忠次から2代目直次までの時代は、織田信長が1560年に桶狭間で今川を破って10年後から1600年の関ヶ原の合戦に至るまでの激動の30年間でした。

 

初代忠次は秀吉の弟の大和大納言秀長にずっと仕え、二代目直次は秀長、次に羽柴四天王の一人尾藤甚右衛門知宣に仕え、その後は賤ヶ岳七本槍加藤嘉明に仕えました。有名な黒田官兵衛がもともとは播磨で小寺官兵衛と称していたのとは異なり、九兵衛の出自はずっと北近江の黒田氏です。

 

豊臣秀吉の政権で黒田氏が再興して取り立てられた理由は3つあります。

  1. 鉄砲鍛冶の盛んな近江の国友に精通していた。
  2. 琵琶湖の湖上水運の重要な要諦の北近江に位置する長浜城の地元であった。
  3. 室町幕府において名門の四職のひとつ宇多源氏の京極氏の重臣の家柄であった。

 

秀吉以前

これらを考えるにあたって、まずは家格と秀吉以前の状況を整理しましょう。

 

源氏も平氏も元々は平安期の皇族でした。皇族賜姓といって天皇が姓を与えて臣下に降ろして、皇族の経費を節減することが始まりです。清和源氏は56代清和天皇の皇子が始祖で、頼朝や義経など源氏の最大勢力でした。宇多源氏は59代宇多天皇の皇子が始祖です。他に62代の村上源氏などがあります。清和源氏源満仲の長男の摂津源氏、次男の大和源氏、三男の河内源氏などの集団がありました。鎌倉幕府の頼朝や義経室町幕府を開いた足利尊氏の祖先の源義家河内源氏のグループに属します。

 

当家の祖である佐々木氏(佐々木源氏)は近江国を発祥とする宇多源氏の系統です。宇多天皇の玄孫である源成頼が近江に下向し土着しました。平安末期の西暦1100年頃と推測されます。源平合戦で活躍し勢力を全国に広げました。

 

百年後の1221年、承久の乱の頃に佐々木源氏は四つに分かれます。三男が宗家となり六角氏として六波羅を中心に活動、四男が京極氏となり鎌倉幕府の要職を務め、足利政権の室町幕府でも要職にありました。琵琶湖周辺の近江では京極氏が北近江、六角氏が南近江を所領としていました。室町時代に軍事や京都の警察・徴税などを司る四職守護大名の赤松(播磨)・一色(三河)・京極(近江)・山名(伯耆)の四氏でした。四職に準じる氏族が美濃の土岐氏駿河の今井氏、さらに伊勢氏(三河)・上杉氏(越後)と三管領細川氏三河)、斯波氏(越前)、畠山氏(武蔵)です。

 

黒田家は黒田判官とも呼ばれていました。判官とは律令制の官位の4段階で言えば3番目。最上位が長官。次が次官です。長官は行政機関の太政官としては、左大臣や右大臣に相当します。次官は太政官としては大納言、中納言、参議に相当します。3番目の判官は行政実務全般を統括する官位で、4番目が主典で公文書の草案などの事務を行います。

 

その300年後に、1520年前後には京極氏のお家騒動に便乗した譜代家臣の浅井氏が下克上で京極氏を追放し、北近江を支配するようになりました。その三代目が浅井長政です。宇多源氏の京極氏の重臣として判官の家格であった黒田氏ですが、浅井氏の下克上のとばっちりで放逐されていました。近江に残った黒田氏もいましたし、琵琶湖の北を通って播磨の方に落ち延びた黒田氏もいたのだろうと思います。播磨に住み着いた黒田氏の一派が有名な黒田(小寺)官兵衛です。

ちなみに、高家(こうけ)という呼び方は、江戸幕府における儀式や典礼を司る役職で忠臣蔵吉良上野介が有名ですが、京極家も江戸時代には高家とされました。黒田家は高家ではありませんが、室町幕府四職を務めた京極家の実務全般を取り締まっていたことから、江戸時代まで仕えた加藤家においても一定の格式をもっていました。

 

黒田氏は浅井氏の下克上によって京極氏が追放され、そのあおりを食って北近江で(一部播磨に逃亡して)浅井滅亡までの50年もの間ひっそりと暮らしていたことになります。

 

救いの神だった秀吉

1570年、織田信長が越前の朝倉義景を攻めた時に、義弟であった浅井長政は裏切り信長を窮地に立たせましたが、その後破れました(金ヶ崎の戦い姉川の戦い)。1573年、信長は北近江に出陣。越前朝倉氏を一乗谷の戦いで破り、取って返して浅井氏を攻めました。

この戦いで武功を挙げた木下藤吉郎羽柴秀吉と改名し、浅井氏の本拠であった小谷城の資材を今浜に運び、1576年頃に長浜城を築城しました。こうして、羽柴秀吉は初めて城持ち大名となりました。

 

当家に残されている黒田家の系譜は、この頃から始まります。

羽柴秀吉が城持ち大名となった際にはすでに、初代黒田九兵衛忠次は城代であった弟の羽柴秀長に仕え、天正年間(1573年から1592年)秀長に大和大納言になった後も仕えています。

天正年中大和大納言秀長公随身命終年月相知り申さず候」黒田九兵衛系譜より。

 

鉄砲が伝来したのは1543年。北近江の国友の鍛治がその翌年には早くも鉄砲を作っています。堺衆や根来衆などだけではなく北近江の国友はその後一大産地になります。今井宗久千利休といった堺の商人から鉄砲を調達するだけではなく、織田信長は国友の鉄砲を重視しており、わずか15歳の時の1549年には500丁の鉄砲を発注、1570年には秀吉に国友の鉄砲業の発展を命じています。武田軍を破った1575年の長篠の戦いでは国友製の鉄砲も使われたものと考えられます。記録にはありませんが、ひょっとしたらこの頃から秀吉は北近江の黒田氏と関係があったかもしれません。

 

初代黒田九兵衛忠次が正式に羽柴秀長の家臣となったのは天敵浅井長政が滅びた1573年のことです。城持ち大名とは言え、百姓出身の秀吉は戦上手ではあっても大名家としての内政には知らないことも多く、また家格は見劣りします。浅井攻めによって京極氏も復権しましたが、羽柴家にとっては名門だが実務能力の無い京極氏よりも、その重臣でかつ実務を取り仕切っていた黒田氏を家臣として取り立てた方が都合が良かったものと考えられます。

 

浅井氏が滅亡し長浜城が完成した1573年から1576年頃は、長篠での武田軍への勝利もあって勢いづいており、羽柴秀吉は大幅な人材のテコ入れをしています。1575年には黒田(小寺)官兵衛が秀吉の仲介で織田信長に仕官、1576年には藤堂高虎羽柴秀長に仕官しています。この頃、二代目黒田九兵衛直次は元服するかしないか位の年齢で、後に仕えることになる賤ヶ岳七本槍加藤嘉明もまだ10歳位の少年でした。

 

中国攻めと四国攻め

琵琶湖と近江の支配権を確立し東海・北陸・信濃を抑えた信長・秀吉の次のテーマは、畿内や西方の領地の拡大でした。三好勢・石山本願寺紀州・中国・四国などです。特に、毛利氏は鉄砲傭兵の雑賀衆根来衆と通じて牽制していました。中国攻めのためには緩衝地帯の但馬や播磨を平定し、また大阪湾や瀬戸内海の海運を掌握するためには淡路島を手中にする必要がありました。

 

この頃、信長は毛利氏との戦いに大きな布石をしています。毛利に敗れたものの中国地方の勢力を二分していた尼子氏は佐々木源氏の庶流。京極氏やその重臣の黒田氏も佐々木源氏の系統です。黒田一族を再興し、尼子遺臣団に加勢し、毛利対策を行ったとも言えます。一方、淡路島では、毛利方についた土豪出身の安宅清康の由良城と淡路守護細川氏の家臣だった三好氏が治める織田方の志知城とが対峙していました。

ところが1582年に本能寺の変が起きます。信長亡き後の清洲会議では妥協策として長浜城主を譲り受けたものの柴田勝家の影響力が低下、羽柴秀吉重臣筆頭となりました。同年の賤ヶ岳の戦い柴田勝家は越前に敗走しました。これによって、信長の後継者としての秀吉の地位が確立しました。豊臣秀吉が関白となるのはわずか3年後の事でした。その1585年に秀吉は紀州攻めと四国攻めを行い西方の地盤を確立しました。特に紀州攻めにおいて鉄砲傭兵の雑賀衆を全滅させたことが奏功しました。

 

要諦の淡路島には洲本城に脇坂安治、志知城に加藤嘉明を配して治めさせています。この際に二代目黒田九兵衛直次は加藤嘉明に召し抱えられ知行150石を賜り御鉄砲頭を仰せつかっています。

 

初代九兵衛の忠次と二代目の直次には、鉄砲・琵琶湖・水路(水軍)のキーワードがつきまといます。九兵衛直次は淡路水軍の鉄砲頭として活躍します。私見ですが、北近江の国友で製造された鉄砲は琵琶湖の北岸から南岸の大津を経由して川を通って大阪湾に運ばれたのだと考えます。大津から宇治を通り、淀川を通ってです。同じ川ですが、瀬田川宇治川桂川・木津川・淀川と名前が変わります。重量のある鉄砲の運搬にはこれが最も合理的です。黒田家の領地は国友鉄砲の製造地であり、また湖上水運の拠点でもあったため船の知識がありました。黒田家が豊臣家にもたらしたものは、宇多源氏京極氏の家格だけではなく、鉄砲と水軍という軍事的な側面も強いのだと思います。雑賀衆根来衆などの鉄砲傭兵は、寺社勢力の強かった紀州攻めにおいて全滅し羽柴秀長が統治することとなりました。

 

その後、1587年に豊臣秀長も大和大納言になっています。初代忠次は加藤家家臣となることはなく最後まで豊臣秀長に付き従いました。

 

二代目九兵衛直次は勇猛果敢な若者で1590年の小田原征伐では淡路水軍として九鬼水軍とともに出兵。鉄砲頭を務めました。また、1592年から翌年に及んだ2回の朝鮮出兵においても鉄砲頭として淡路水軍も参加しました。この功績によって1598年に加藤嘉明が伊予の眞崎を拝領した折に、直次も伊予の野間郡吉田村(現在の松前町)に知行600石を賜っています。

 

直次討死

1600 年 加藤嘉明が東軍・家康方として参加した関ヶ原合戦の際に、浜手口御門(海沿いに面した御門)守護の留守居を仰せつかったところ、9 月 10 日毛利軍勢 50 騎以上が三津浜(松山市西部)に襲来しました。9月16 日に佃次郎兵衛尉(佃十成)と黒田九兵衛直次は敵陣に夜襲を行い敵の首を数球討ち取り、敵の毛利方を散々に敗北させました。しかし、毛利方は八幡山麓の如来寺(松山市東の如来院および日尾八幡神社)に籠城。19 日に討議して直次は如来寺に向かい門を打ち破り、勇猛果敢にただ一騎で駆け入りましたが、敵方の鉄砲射撃が烈しく銃弾を受け団扇や指物に7 発、総身に5 発の銃弾を受け、1600年9月19 日討ち死にしました。

 

死後、加藤嘉明如来寺を見聞した際に直次の弟の松に家督相続を命じました。その後、三代目九兵衛忠直となって加藤嘉明の長子である加藤明成に付き従い大阪夏の陣に出陣しています。

 

徳川の時代

黒田家は徳川の時代も加藤家に仕えていました。加藤家が会津42万石に転封となった際も一緒でした。佃十成は讃岐出身であったため伊予に残り伊予松山藩家老となりました。1643年に加藤家が会津騒動で会津藩を返上し石見吉永藩1万石に減封となった際には、一時的に伊勢の久松松平家桑名藩)に召し抱えられ御物頭(足軽大将)として過ごしています。

しかし、1682年に加藤家が水口藩主として2万石となると黒田家は加藤家の家臣として復帰しています。この頃の加藤家当主の加藤明友は大名にとって出世の登竜門的な役職で武家の礼式を管理する奏者番となっています。五代将軍綱吉の頃です。

 

五代目の黒田九兵衛直政は八代将軍吉宗の頃です。人材抜擢による刷新を行なった吉宗から御旗奉行(老中に属し将軍の軍旗を管掌)に取り立てられました。甲賀市水口町綾野に屋敷を構えていました。特段に功があったわけではありませんが、黒田家は下克上なく存続した八家のうちの京極氏であったため、名誉職として賜ったものと考えられます。

 

余談ですが、当家には二振りの脇差が伝わっています。ひとつは短脇差で室町期のもので関の銘が打ってあります。これは初代の忠次または二代目直次のものと思われます。傷もあります。もうひとつは傷一つない長脇差で江戸期の作です。銘がなく長脇差としての価値は定かではありませんが、その鍔が驚愕でした。江戸中期の名人金工師である奈良利寿の作なのです。奈良派を代表する利寿の鍔は数点しか存在しないと言われ、ひとつは重要文化財の国宝となっています。筆者の自宅で保管するにはあまりに不用心なので、某公共の博物館に寄託して保管してもらっています。

五代目直政は禄こそ決して多くありませんでしたが、めでたい名誉職に奮発したものと思われます。

 

その後も黒田九兵衛は11代目の直尋の幕末の頃まで御物頭(足軽大将)を水口城で務めました。なお、水口藩は戊辰戦争の際には官軍に味方しています。最後の水口藩主は廃藩置県の後に子爵として東京に在住。黒田家もその後、東京へと移り住みました。

ビジネス編:商品作りの考え方(1)

私塾「花草舎」塾頭の九兵衛です。

 

衆院選で政治ネタが続いたのでビジネスの話に戻します。

前回は、目標としての「成功を自分なりに定義する」ことの大切さを書きました。

今回は、「商品づくりの話」です。

前ぶりとして、ちょっと上場企業の時価総額を比較してみましょう。

Apple  2.43兆ドル

Microsoft 2.33兆ドル

Google  1.85兆ドル

Amazon 1.71兆ドル

Facebook 0.89兆ドル

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トヨタ   32.7兆円

ソニーG 16.5兆円

キーエンス 16兆円

任天堂 6.3兆円

ソフトバンク 7.4兆円 + 関連企業 15兆円

 

90年代後半に株式交換方式のM&Aが解禁されてから、時価総額の大きさは「キャッシュがいらない買う力」となりました。今やM&Aは当たり前とも言える時代です。

私はこの時価総額を目を凝らしてじっと見ていると「M&Aで拡大していく安易な拡大路線はあまり評価されない」「コツコツと本業のものづくりにこだわり続ける企業を市場は評価している」。そう言うふうに見えてしまいます。

 

素人がそんなことを言って、と思われるかもしれません。しかし、私はすでに引退していますが素人ではありません。証券アナリストの資格を30年近く保有し、現役時代は数十人のファンドマネージャーたちと数十人のエコノミスト・アナリスト部隊を統率し、兆円単位の機関投資家資金を運用しておりました。

 

話を戻すとAppleは80年代から狂気じみた製品開発を、Amazonはひたすら検索型ECを、トヨタはひたすら生産技術を、キーエンスはひたすら制御技術を、任天堂はひたすらスーパーマリオを、こだわり続けた職人集団です。その商品作りは徹底しています

 

一方で、GoogleFacebookソフトバンクと言った企業はM&Aが中心というイメージがつきまといます。特に、ソフトバンクは常に変化してきて「何屋さんなの?」というイメージがあります。孫正義氏はカリフォルニアの大学生時代に電子翻訳機を開発した天才でした。それをシャープに販売して事業資金を作ります。その後は、ソフトの仕入れ販売をしていましたが、野村證券で担当者だった北尾氏とコンビを組んで、90年代前半に米国の半導体メーカーを買収します。その後、買収で拡大を重ね2000年代に自分よりも大きいボーダフォンを買収して携帯電話事業に参入します。

 

決して買収戦略を批判するものではなく合理的でもあるのですが、「そんなものを真似しても、一般の多くの人たちには何の役にも立たない」ので花草舎では取り上げません。

 

花草舎では「ゼロから考える商品作り」を学んでいきます。

 

塾頭 九兵衛